一行の伝言
連載43 ($Revision: 1.1 $)
◆ ◇ ◇
その朝、高原さんはいつもと同じ様に、電車に揺られて会社に向っていました。通勤ラッシュ時間とは少しずれているとはいえ、車内にはたくさんの人です。
少し経ってから気がつきました。目の前に広げていた本の向うにマキさんの顔が見えます。高原さんの最寄りの駅より、さらに遠いところから乗ってくる彼女は、座ることができたみたいです。まだ、全然気付いていない様子。マキさんもまた、持っている本に見入っています。
「マキちゃん」高原さん、少しそちらに移動して声をかけました。気付いてくれたみたいです。立ち上がると、近づいてきて云いました。
「おはようございます」
「おはよう、」ふたりで並んで、吊り皮につかまります。
マキさんが胸に抱えている本を目に止めました。『やさしい Emacs-Lisp 講座』
「おとしごろの女の子が、電車で読む本じゃないよね」ええー、いいじゃないですかぁ、と返ってきます。
「この表紙がかわいいですよねぇ」「ははは、そうだけどね」
まだ、駅までかなり時間があります。マキさんはその参考書を鞄に収めると、吊り皮を持ち直しました。
「この間、有川くんがディスプレイの前で、泣いてたみたいだけど」
「ああ、それはあれですね『男と娘 *1』の物語を読んだんです。きっと」
なんのことなのか分からない高原さんは眉間を寄せます。マキさんが説明するとやっと納得してくれたみたいです。
「なるほど、それは淋しいだろうな・・でも有川くんは、その日本語版が出たらすぐに買っちゃうでしょう?」
「Palm ユーザがそちらに行ってしまうのは、当然のことですよね。ちっとも悪いことじゃなくって。至るべき道というか、作者の山田さんだってそう考えていますよ、きっと」マキさん考えてから、そう答えます。
「そうねぇ、ウチの男性陣は本当『神様』て云ってるもん」
「私の悩み、聞いていただけます?」
「なあに、深刻そうに・・」
駅を出て、社に歩いて行く途中で、マキさんが話し始めました。
「最近また、社内の Web ページをいじり始めたのですけど」
「そうそう、なんか色々機能が追加されてるよね」
「見てくれました?」
高原さん頷きます。「掲示板とかできてたけど、あれってマキちゃんが作ったの?」
「はい、最初のバージョンはもう欲望のままにいろんな機能を入れて、結局、それは失敗だったて分かって、今のものはシンプルに改造しました」
「ふうん、それがなにか問題なの?」それを聞いて高原さんは、技術的なことかと思ったのですが。どうやら違うみたいです。
「昨日のことなんですけどね。書き込みがあったんです」
「なんて?」
「『あなたの秘密を知っているものより』」
「それだけ?」「はい」
マキさんの横顔が翳ります。
「なに?、秘密って」
「ずうっと考えているんですけど、分からないんです」
「会社の人しか書き込めないでしょう。心あたりはないの」マキさん首を振ります。会社の FireWall 内の Web マシン上のことですから、社員の誰かであるはずなのですが。
「名前とかメールアドレスは?入ってなかったの?」
「はい、前は IP とかも表示させていたのですけど。止めたんです」
「でも、タタさんとか有川くんなら調べてくれるんじゃない?どのマシンからか」
「恐いじゃないですか、なにか・・」
一体誰がそんな怪し気なことを書いたのでしょうか。
オフィスに入って行くと、すでにタタさんが来ていました。挨拶を交して、席についたのですが、どうも気になってしまいます。マキさんもう一度自分の Web ページをブラウザで開くと、掲示板を見てみました。
『あなたの秘密を知っている・・』
やはり昨日のままです、訂正してあるのを期待したのですけど。
「ほんとだね」いつの間にか高原さんが後ろから覗きこんでいました。
「タタさぁん」
「はい」ディスプレイの向うから、彼の顔がひょっこり出ました。ちょっと来てと、云う高原さんに、タタさんは手を止めるとマキさんのデスクにやって来ました。
「なんでしょう、これ」タタさん画面を見てから訊きます。
「なんだと思う?マキちゃんの、今のお悩みなんだけど」
マキさんはじっとディスプレイを見つめています。
「マキさんの秘密を知っている人って誰でしょう。まずそこから考えてみたらどうですか」
「秘密って、マキちゃんに秘密があるとも思えないけど・・」
「それは誉め言葉なんでしょうか?」マキさん云います。
「いや、それにしても、ずいぶん深刻に受けとめてない?」
「会社の中の人にそんなこと云われると、すごく気になります。なんか、見られてる感じがして」
そんなマキさんにタタさんが云いました。「じゃあ調べてみましょうか、ログを見てみれば、どのマシンから書き込まれたか分かりますよ」
「そうですね」考え込んでしまいました。
そんな彼女を見ながら、高原さんは、ふと思いました。もしマキさんにとって、とても身近な人が書いたとしたら・・ 社内で彼女と親しい人と云えば誰でしょうか?タタさんと目が合います。(私たちか、同期の子たちかな)
「ねぇ、今日は、三奈月ちゃん遅いね」
「ああ、彼女なら、今日は朝からおでかけです」タタさんが答えます。
「そう」
もう一度タタさんと目が合った瞬間、分かった様な気がしました。思い出します、タタさんも昨日は早く帰って行ったのです。
「昨日の書き込みなんだよね」「そうですよ」
高原さんは、隣にある三奈月さんの机を見ます。
「マキちゃんさ、もしかして、その掲示板プログラムって最近修正した?」
「ええ、先週くらいに、」
それを聞くと、三奈月さんの机の上にある、ディスプレイのスイッチを入れます。
「あ」マキさんが声を上げます。そこには、まったく同じ画面が映っていました。
「昨日、彼女忙しそうに帰っていったからさ」そう云って三奈月さんの机のマウスを手にしました。たぶんね、と続けます。「マキちゃんプログラムがバグってるんじゃない?」
「え、どういうことですか?」
「うーん、ちょっとプライバシーの侵害なんだけど・・」マウスを動かして、ブラウザのバックボタンを押します。もう一度マキさんが驚きの声を上げました。
ブラウザに、マキさんの作った『掲示板の入力フォームページ』が現われたのです。そこには
『日本語版 Palm のページは見ました?
Aさんは多分買っちゃいそうだって云ってましたよぉ (^^;
あなたの秘密を知っているものより』
三奈月さんが入力して、送信したはずの文章がフォームにセットされて表示されました。
「Aさんて、アリカワだな・・」高原さん、呟きます。
「秘密って、あのことかな」三奈月さんの知っているマキさんの秘密に、思いあたるみたいです。
タタさんが手を打って、「なるほど、プログラムのバグというのは、おそらく、変数の扱いで間違ってしまっているんでしょう。上書きしてしまって」
「うん、最後の行だけ出ちゃったのね」高原さんも云います。「それで、三奈月ちゃんの茶目っ気を出した行だけが残った」
「しかも昨日帰りがけに、三奈月さんは急いでいたから、submit だけして確認しないで帰っちゃたのか・・しかも名前を入れないで」
「あの子も時々おっちょこちょいよねぇ」高原さん困った顔をしますが、ちょっと嬉しそう、
そして、マキさんの顔を覗き込みながら云いました。
「それで秘密ってなんなの」
そう訊かれて、つい、マキさんは口ごもります。
「・・ないしょです」
タタさんそんな彼女を見て笑います。つられて、ふたりも笑ってしまいました。
◇ ◇ ◆
註
*1: これを読んで涙した人も多いことでしょう。⇒「男と娘」

