1998年8月アーカイブ

朝露
連載32(Ver1.0)

◆ ◇ ◇

 彼は朝の雨が嫌いです。
 それは、彼の朝を見れば一目瞭然のことなのですが、もう少し違った側面もあります。
 その朝は明るかったので、彼は布団からそこそこ元気に起き出すことができました。着替えをすると、他の家族を起さないようにと、静かに廊下を歩いて外に出ました。自転車を引いて門の外でそれに乗ります。
 夏とはいえ、辺りはまだうす暗く、足元を探るようにして進みます。でも、空の雲は厚くはないようです。
 いつもの路、ペダルをこぎながら、水溜まりを避けながら走ります。
 彼が朝の新聞配達を始めて、もうすぐ、1年が経とうとしています。動機は、なんとしても、自分のパソコンを手に入れたかったからです。でも、中学生のおこづかいをいくら溜めたところで、それには限界があります。当然ながら、校則でバイトは禁止されていますし、親が許してくれるはずもありません。
 しかし、どういうわけなのか、学校でも「新聞配達は特別」らしかったのです。彼自身、それを特別扱いにするということに、疑問が無かったわけではありませんが。ほかに方法も無さそうですし、両親も、それならば応援すると云ってくれたのでした。
 当初はなかなか、一人では起きられなかったのですが、それも馴れました。冬場の大変さに比べれば、今は本当に楽です。
 新聞屋さんに着いて、今朝の分の新聞を荷台に括り付けます。その頃には、周りはもう明るくなっていて、ライトを点ける必要はありません。毎日の道順へとスタートします。
 正直、自分でもこれ程に長続きするとは思っていなかったのです。もちろん、「パソコン」という大きな目標がありますから、がんばれるのですけど。現在では、パソコンと云っても、それ程に高いものではありません。正月のお年玉と稼いだ金額とを合わせれば、そこそこのスペックのものが買えそうな時期もあったのです。
 いつものコースを辿りながら、つい呟きます。
「・・今日は会えるかな」

 目を開くと、部屋の中が明るかったので、外は晴れているだろう、と思いながら、ベッドから勢いよく床に下りました。カーテンを開くと、朝の光が部屋に差し込みます。
 連日の雨で、このところストップしていたのでした。マキさん、いつものスタイルに着替えると、玄関を後にしました。アパートを出たところで、少し体を動かしてから、久しぶりの道を走り始めます。

 半年前くらいでしたか。
 朝のいつもの通りを、走っていたときに彼女とすれ違いました。その初めての時は、印象が薄かったのですが、それから数日を経過してほとんど毎日のように、朝、顔を合わせるようになって、その人と挨拶を交すようになりました。
 とびきりの美人というわけではなく、どちらかと云えばボーイッシュな雰囲気の彼女なのですが、健康的なスタイルと上気した頬、なにより「おはよう」を云うときの笑顔が・・
(たぶん、大学生なんだろうな。田舎からこちらに出てきて、初めての一人暮しとかかな。高校生に見えないこともないけど、それにしては、身体つきが) 彼から見れば、眩しすぎる様です。
 そのすれ違いの一瞬が、彼に取ってとても重要なことになって、数ヶ月が過ぎようとしています。もちろん、彼女の名前を知ることはできません。
 その結果が、より「グレードの高いパソコンを買う」という目標に妙な感じで連結されたのでした。
 しかし、ついこの前、従兄弟のお兄さんに見せられた『ぱーむなんとか』という小さなコンピュータも気になります。それなら、いま貯金されている金額で十分手にできるとのことでした。

 緩やかな坂道を登ったところに、赤いポストが見えます。数日を空けただけなのに、少し息が上ってきてしまいました。
「年かなぁ」なんてことを漏らしています。TEENS と思われてしまっている彼女の科白としては、十分に滑稽です。
 それでも、乾ききっていない水溜りを飛びこえて、坂の上を目指します。大抵、その辺りで、新聞配達の男の子とすれ違うのですが。

 下り坂に近づきました。なるべくなら、坂の前に彼女に会えたら良かったのですけど。止まって、郵便受けへと新聞を押しこみます。そして、道をはさんだ反対側の家へも新聞を置きに行きます。玄関ドアの郵便受けまで、階段を上ります。
 下りてきたそのとき、
「おはよう!」
 傍らから、声がかかりました。見ると彼女です。
「お、おはようございます」いつもながら、緊張してしまっている自分をもどかしく感じます。
「最近、大変だったでしょう?雨で」彼女は、その場で足踏みをしながら、訊いてきます。
「はい、まあ、仕事ですから・・」
 がんばってね、そう云って、彼の肩をポンと叩くと、彼女は行ってしまいます。彼は自転車まで戻りますが、彼女の後ろ姿に少し見惚れてしまいます。ショートパンツから、すらりと伸びた足に釘付けになりそうになっています。はっと、自分の頭を小突くようにしてから、ペダルを再度こぎ出します。
 今日は良い日になりそうです。

 マキさん、家に戻るとそのままシャワールームに直行します。汗を洗い流すと、キッチンでトーストを焼きます。最近は会社でコーヒーが飲めるので、朝のドリンクは牛乳となりました。トーストにマーガリンを塗ってかじりつきました。
 そうしながら、日本語化された DateBk3 *1 でスケジュールをチェックします。今日は彼女の初仕事と云うべきプロジェクトの打ち合わせがあります。自然、心地良い緊張が込み上げてきました。Pilot に転送しておいた事前のドキュメントを、TealDoc *2 で軽く読み流します。なんと云ってもタタさんがまとめ役なので、嬉しいですし、安心です。
 朝食を終りにして、着替えをし、鏡に向います。
 荷物をまとめます。まだ、他の人たちのように、ノートPC を持ち歩くようなことはしていません。持ちものは、電車で読む本と財布と、あと数点くらいです。
 靴を履いて、玄関に掛けてあるミラーにもう一度自分をうつすと、外に出て施錠しました。
 カバンを肩にかけると、いつもの足取りで勢いよく歩き始めます。

◇ ◇ ◆


*1: 更にバージョンアップを重ねている、Datebk3 です。現在では完全な日本語化が成されています。ローカライズは、冨永さんがされました。
*2: TealPoint 作成の、Docフォーマットリーダーです。最近は、TDoc Writer (BETA) が話題です。 TealDoc の為のリンクやブックマークが付けられるそうです。

夏の夜
連載31(Ver1.0)

◆ ◇ ◇

 8月の最後の週末に、恒例のバーベキュー大会が鶴川さん宅で行われました。都心から少し外れたあたりの閑静な住宅地で、庭のスペースを一面に使っていつもの顔ぶれが集まっています。
 例年通りに楽しいひとときが過せました。事件と云えば、PalmIII を手ウロウロしていた有川くんが、それを芝生の上に落してしまい Hardware Reset する羽目になってしまったことくらいです。
 しかし彼は、
「ほら、ハードリセットしても日本語が出ますよ!」と、FlashBuilderIII *1 でインストールした PalmIII を手に、変に嬉しそうに自慢します。
「莫迦だね」とは高原さんの言葉。
 バーベキューが終って、片付けも済み、芝生の上に座りこんで、暮れてしまった空を見ながら缶ビールを開けます。
「おつかれさまでした」タタさんの号令で、缶が合わせられました。
「夏も終りですねぇ」マキさんがしみじみという感じで云います。もちろん、彼女は初めての参加です。
 そして、「この時期に思い出すことがあるのです」という三奈月さんの言葉に、皆さんの視線が集まります。

「2年前でしたっけ、新しいシステムの導入に行っていたじゃないですか。高原さん」
 あったねぇ、と彼女相槌を打ちます。
「本当にこの頃でしたよ、夏休みを返上してそれにかかりきりだったんですから。その時のことなんですけど」
 三奈月さんが入社した年でした。これまで稼働していた、あるシステムのバージョンアップを行うということで、高原さんと配属されたばかりの三奈月さんがそれに当たりました。ボリューム的には大したことはなかったのですが、とにかく期間が短く、てんてこ舞いをしたのをよく覚えています。
「一度だけ、私が独りで夜に作業をしたことがあったのですけど。その時にすごく、恐い体験をしたんです」
 いつしか、彼女を囲んで輪ができています。
 その日は、高原さんは別件で出掛けていて、三奈月さんが一人でそこへ行き夕方から作業をしたのですが、問題が発生してしまいます。しかし、高原さんになかなか連絡がとれずに遅くなってしまったのでした。
「私が近くで夕食を取って、戻ってくると、会社の人が誰もいなくなっていたんです。少し不思議に思ったんですけど、私が帰ってくることを見越して帰ってしまったのかなぁ、と考えました」
 三奈月さんは、再度、ディスプレイの前で様々な対応をしていたのですが、高原さんに訊かなければ分からないという場面に先程からぶつかっていたのです。(もう帰ろうかな) と思ったときにそれが起きたのです。
 マシンルームは、事務所の奥にあります。レイアウト的には、まず、オフィスがあって、その奥にマシンルームがあり、更にマシンはパーティーションの向う側にあります。
「マシンルームの更にまた奥に、女性用の更衣室があったんだよね」高原さんが思い出します。そうでしたね、三奈月さんも答えます。
『おつかれさまですね』ディスプレイに見入っていた三奈月さん、突然声をかけられて驚きました。いつのまにか、こちらの社の女性、滝原さんがいました。年齢的には三奈月さんの少し上くらいでしょう。
『あれ、今日は直帰じゃなかったのですか?』そう聞いていました。ちょっと、忘れものしちゃって・・そう云って奥の更衣室に入っていきます。少し時間をおいてから、大きめの紙袋を下げて戻ってきました。
『じゃあ、おさきに失礼します』
『おつかれさまでした』
 滝原さんは帰っていってしまいました。また、心細くなります。時計を見るとすでに10時を回っていました。そろそろ、帰ろうかな。戸閉りをして出なければなりません。
 足音が聞こえたように思えました。
『どなたです?』思ったよりも大きな声が出ました。足音はパーティーションの壁の向う側でピタリと止ります。
 ちょっと恐かったのですが、三奈月さんは気のせいだと決めつけて、作業に戻りました。しかし・・
 ぺたん、ぺたん、
 確かに足音がします。そしてまた、パーティーションのすぐ向う側で止まるのです。仕切りの向うに誰かいるみたいです。それも、一人ではありません。彼女は背筋が冷たくなっていくのを感じました。そう云えば、この建物は「出る」ということで有名らしいのです。
 それでも、意を決して、椅子を立ちます。パーティーションの壁は高いので、背伸びをしたところで向うが見えるものではありません。ぐるりとその向うまで歩いていきます。おそるおそる覗いてみますが、やはり、誰もいませんでした。もしかしたら、オフィスの方かもしれないという望みを持ってマシンルームを出てみましたが、そこも机がただ並んでいるだけでした。
 結局、三奈月さん恐くなってしまって、その日はすぐにオフィスを出てしまったのでした。そして、次の日に高原さんに笑われたのです。

「足音だけって、恐いですね」マキさんが云います。
「その時のこと思い出すと、今もぞっとするんです」
「うーん、気のせいじゃないの?」と有川くん。
「でも、独りなら仕方ないでしょう?」美由さんがフォローします。
 高原さんが聞いて、そのときのことをそちらの社の人に云っても『気のせいでしょう』と云われて終りでした。三奈月さんもわざわざ次の朝に電話をして、滝原さんに戻って来なかったと訊いたのです。
「でも、そのまま帰ってしまったみたいです」
「そんなに恐かったのですか?」タタさんが訊きます。彼は当時、直接本人からではなく、高原さんの話で知っていたのでした。
「滝原さんと斉藤くん、結婚しましたよね」唐突にそう云います。
「え?はあ、そうですけど」
 滝原さんと同じグループの斉藤さんは1年くらい前に結婚しています。三奈月さんと高原さんは式の2次会に参加したのでした。
「つまり、そういうことです」それが答えだ、とでも云うように。
「なにが?ですか?」
「もしかして、タタさん、その時からなにか分かっていたんじゃないの?」 高原さんが云いました。
「いえ、分かっていたというわけではないですけど、なんとなくこうだったのかなぁ、ていうのはありましたけど。でも、プライベートなことでしたしね」
「え?真相があるのですか?」
「まあ、いいです、時効でしょうし。単純に考えるとですね」タタさんの解説が始まります。

 そのオフィスは先程も云った様に、入り口からオフィス、マシンルーム、さらにマシンの置いてあるパーティション、その奥の更衣室、の4つの部屋があるのです。
「つまり、死角が場所に対して3つあることになります。そして、これらは、連続している部屋なわけです」
 第一の部屋が、オフィス。第2がマシンルーム、第3がパーティションの中、第4が女子更衣室。
「三奈月さんが作業していたのは、第3の部屋であるパーティションです。そこにいたら、滝原さんが、更衣室に忘れものを取りに来たのですよね」
 三奈月さんがうなずきます。
「滝原さんは、三奈月さんのそばを通って更衣室に入ります。つまり、更衣室に入るためにはそこまでの3つの全ての部屋を通る必要があるわけです」
 皆さん、(だから?) という顔をします。
「滝原さんと、姿がない足音と関係があるのですか?」
 そこで、タタさん人差指をぴっと立てます。ちょっと芝居掛かってますね。
「問題はですね。三奈月さんが、その3の部屋に陣取っていたためだと思います」
「どういうことですか?」三奈月さんも他の人もピンと来ません。
「云ったじゃないですか、夕食から戻ったら誰もいなくて、変に思ったって」
「じゃあ、もしかして、誰かいたのです?」
 タタさんうなずきます。「つまり、戻っても誰もいなかったこと。ノーリターンするはずの滝原さんが戻ってきたこと。三奈月さんが姿の無い足音を聞いたこと。これらが全て関連していると考えれば」
「なるほど、では、三奈月さんがそこにいるということに困った人がいたのですか」有川くんが云います。
「その通りです、そして、滝原さんの結婚」
「ですから、どうして、その結婚に関係しているのですか?」
「だからですね。その時のことをちょっとシミュレーションしてみましょうか」

 三奈月さんが戻ってきたときに、オフィスには当然、残っている人がいたのでした。彼女が戻ってきたら、戸閉りをお願いして退社するつもりだったのです。三奈月さんを待っている間に、電話が入りました。
『忘れものしちゃったから、来るときに一緒に持ってきて』それは更衣室の私のロッカーの中に入っているから、と。
 三奈月さんが戻ってくる前にと、更衣室に入ります。ロッカーを開いてそれを取り出したときに、マシンルームに足音が響きました。タイミング悪く、彼女が戻ってきてしまった様子。それから、ディスプレイの前に座って動く気配もありません。このままでは出ることができません。
 滝原さんは、いつになっても現われない待ち人の携帯に電話を入れます。
『三奈月さんがいて、出るに出られなくなってしまった』そう云われます。仕方が無いと、滝原さんは社に戻ります。そして、更衣室へ入って忘れものを持って一度外へ出ます。そして・・・

「滝原さんが、足音の正体なのですか?」
「ですから、三奈月さんをなんとしても第3の部屋から、第1の部屋まで移動させる必要があったのです」つまり、パーティションから、オフィスへと。
「案の定、あなたは不安になって、パーティションから出て、マシンルームを抜けてオフィスまで行っていますよね」
「そうか、曲者はその隙に更衣室からマシンルームまで出てしまえば」くせものというのもなんですが。
「マシンルームはきっと机やら、搬入した後の段ボールとかが雑多に置いてあったのでしょう?」タタさんの問いに、ふたりは、また、うなずきます。
「三奈月さんが、3の部屋から、1の部屋まで移動したときに、彼は4の部屋から2の部屋、要するに女子更衣室から、マシンルームの机の下か段ボールの影に隠れたのでしょう」
 そうして、三奈月さんが、パーティションの中に戻ったら、外に出ればいいのです。
「じゃあ、あの時に斉藤さんが更衣室にいたのですか?」
「そうですね、滝原さんに頼まれて更衣室に入ったのはいいのですけど、それを三奈月さんに見られてしまったら、いいわけが難しいでしょう」
 思わず、みなさん納得します。
「でも、そんなに難しいことしなくても、怖がらせるだけで帰るんじゃない?」鶴川さんが云います。
「そうですけど。それは、三奈月さんの評価によるんじゃないですか」と、有川くんです。
「多少のことでは、ビクつかないっていう印象だったってことじゃないの?」
 思わず彼女の眉間にシワが寄ります。
「まあ、それはともかく、とっさに、おそらく滝原さんが思いついたんでしょうね。マシンルームでの足音は多分、こう」そう云うと、履いていたスリッパを手に持ってそれを下に置いて大きめの音を出します「こうしておいて、すぐに裸足でオフィスまで戻ったのでしょう」それが近付いてくるだけの足音のようです。

「あ!」三奈月さんが大きな声を上げました。「その時、指輪していました、滝原さん」ふと、美由さんのそれを見て思い出したようです。
「ふむ、やはり、ふたりで会う予定だったのか。私、見た覚えないもん、指輪なんて」高原さんが云いました。婚約をまだ会社に報告していなかったのでしょう。ですから、プライベートにだけに指輪をはめていたと思われます。
「そうかぁ、もう!今度会ったらとっちめてやる」そう云う、三奈月さんなぜかとっても楽しそうです。

◇ ◇ ◆


*1: PalmIII は、Flash ROM が内蔵されていますので、アプリケーションをこれに焼き付けることが可能です。また、J-OSIII もそれに対応しましたので、FlashROM に J-OS を焼くことで、ほぼ完全な、日本語 Palm となります。FlashBuilderIII は TRGが販売しています。


連載30(Ver1.0)

◆ ◇ ◇

 朝、起きてみると、陽はずいぶん高くなっていました。前日、有川くんは珍しく部屋で独りビールをあおっていました。それが通常量より遥かに越えていたために、昼頃まで惰眠を貪る結果となってしまった様です。
 時計を見ると、12時をすでに回ってしまっています。
 体を起しますが、どうにも気怠さが残っています。馴れないことはするものではありません。ベッドから体を引き剥すと、シャワールームに向いました。
 寝室を出るときに、一度振りかえって、デスクの上の「それ」を見ます。

 前日に彼から電話がありました。
 美由さんはもちろん嬉しかったのですが、つい素気ない言葉を返してしまいます。
(あした、いつもの所で)
 という用件だけ伝えると、彼は早々に受話機を下してしまいました。
「どういうつもりなんだろう」彼女には彼の真意が見えません。でも、やはり、これまで沈んでいた部分の気持ちがゆっくりと持ち上ってきます。
「あいつ・・なんて云ってやろうか」言葉には悪態が出てくるのですが、感情はそれと別のものが湧き上ってきてしまいます。
『好きなんですね』
 ついこの前にマキさんから云われた言葉を思い出します。「おそらく・・ね」それに今さらながら応えます。
 彼のことに関しては、まるで子供の様になってしまう自分に、とても不安感を持ったこともありましたが、それももうどうでも良いことになりました。
 結局、「ありのままの自分」でいられることが一番大切だと思うことにします。だから、電話口での素気ない対応も彼の前になれば、素直になれる気がします。
 美由さんは、出掛ける準備を始めました。久しぶりに服の選択に時間を費してしまいました。

 お店に着くと、いつものカウンターの席に座ろうとしたのですけど、
「今日は、あちらへ」
 と、マスターが示す方向を見ると、一番隅のテーブル席に有川くんが見えました。大抵、遅刻して来る彼にしては珍しいことです。この席にしたことには意味があるのでしょうか?
「仕事だったの?」お休みなのに、スーツにネクタイをしている彼に訊きます。
「別にそういうわけじゃないけど」 いいだろ?たまには。
 確かに会社に来ていくものとは違って、カジュアルです。彼が閉じて隣の椅子に置いた本は The World of PalmIII *1 でした。聞けば有川くん、ここに来る前に J-OSIII *2 を買いに行っていたそうです。
「今日、発売だっけ?」「そうそう」
 どうやら、そのお洒落なスーツ姿で、アキハバラを濶歩してきたそうです。
(いいけどさ) やはりちょっと感覚がズレている彼に溜め息をつきます。
 そして、しばらく、PalmIII、J-OSIII などの話を聞かされます。いつもマイペースの有川くんを知っている美由さんですから、内容的にはおかしくないのですけど、どうもその仕草に不自然さを感じます。何かあるのでしょうか。

 有川くんは、自分の気を、一旦、落ち着かせようと席を立ちます。気をいつもの状態に戻そうとすればする程、空々しい言葉になってしまいました。スーツのポケットを探ってみると確かにそれはそこに在りました。
 彼女の正面に、再度腰を下すと「それ」を取りだします。目の前のテーブルの上に置きました。
「なにに見える」
 意を決して出た科白は、そんなつまらない言葉でした。
「箱」美由さんは少し不機嫌そうにそう云います。
「はあ?そうじゃねえだろ」
 彼女の方へ向け、箱を開きます。そこには・・・
「箱」美由さんはまた、その言葉を口にします。
(・・莫迦にしてんのか?) そう思って、有川くんはそれを自分の手に取ります。中のものを取りだそうとして、やっと気がつきました。
 そのなかには、

 なにもありませんでした。

 彼はしばらく呆然と、それを見つめます。そんな・・いつ取りだしたんだ?!
 いくらそれを見ても、そこにあるべき、指輪は浮かんではきません。どこにやったんだろう?いつそれがなくなったんだろう?最近のことを反芻してみますが、答えはみつかりませんでした。
 そんな彼の状態をしばらく見ていた美由さん、少しの間は堪えていたのですけど、ほんの数十秒で、つい、吹き出してしまいました。
「?」
「やっぱり、探しているのって、これ?」
 そう云って差し出した彼女の掌に乗っていたのは、確かに彼の買った指輪です。しかし、なぜかそれはビニールの小さな袋に収まっています。
「さっき、席を立ったときに、椅子の上に落ちたの」彼女はそう云うと、それを彼に渡してくれました。有川くんの頭の中で、ここ最近の記憶が一気に逆走します。
 そうか・・
「確か、出張に行ったときに、それだけ取りだして、ポケットに入れたんだ。それで、帰ってきてから、スーツをクリーニングに出した」
 考えてみればズボラな話です。
「なんで、ポケットに入れたの?」
 美由さんはそこまで聞くまでもなく、なんとなく分ってくれたみたいですが。有川くんは、クリーニング屋さんがそこへ入れてくれたらしい、そのビニール袋から指輪を取りだします。そして、それをまた、箱へと入れようとしました。
「はめてよ、」
 美由さんが云います。そして、左手を彼の方へと差し出しました。
「合わなかったら・・・」 怒るよ・・ と彼女は云います。嬉しそうに。
 有川くんは、恐るおそる、彼女の薬指へと指輪を近づけていきます。

◇ ◇ ◆


*1: 前著 The World of PILOT の PalmIII 版と云ったところですが。PalmIII に特化したことばかりではなく、多くの Palm/Pilot ユーザの参考になるでしょう書です。
*2: ついに発売されました。第三世代の J-OS です。もちろん、山田達司さんの手によるものです。HackMaster に依存するものではなくなったことで、より、「本物の日本語環境」になっていると思われます。販売元アイケーイーソフトウェア。

三奈月さんとふたつの謎
連載29(Ver1.0)

◆ ◇ ◇

 梅雨明けの宣言がされたにも関わらず、その朝は雨でした。しかし、会社に着く頃には、空は明るくなっていて、傘は要らないくらいでした。
 三奈月さんはいつも通りの時間に着くと、エレベータを上ります。すでにどなたか来ている様で、入り口のロックは解除されていました。そのこと自体はあまり珍しいことではないのですが、中に入ってみて驚きます。
「おはようございます」
 有川くんがすでに、自分のデスクで仕事をしていました。いつも、コアタイムのぎりぎりに来る彼が、この時間に出社しているのはおかしいです。
「どうしたのですか?」
 訊いてみますが、
「べつに・・・」と云って、ディスプレイから目を離しません。不思議、というより、どことなく不気味な感じです。
「あ、おはようございます」
 席を外していたらしい、タタさんが戻ってきます。
「早いですね」
「ええ、まあ・・」と、こちらもどことなく、はっきりしない様子です。コーヒーを淹れようと、給湯室に向います。豆を挽いて粉にすると、メーカーにセットします。水を入れて、スイッチを ON にします。
 有川くんが早く来ていたことも「変」なのですが、大抵、時間を厳守して同じ時間に来ているタタさんが、この時間帯に来ているというのもおかしいことです。
(ふたりして、なにかあったのだろうか?) とちょっと考えてみますが、分かりません。まあ、タタさんはプロジェクトの、まとめみたいなことがあったのかもしれません。会社には久しぶりに出てきたのですし。
 一度、席に戻ると、すこし待って、また、給湯室に入ります。コーヒーができていました。サーバを手にして、戻ります。有川くんのカップにまず注ぐと、ちらりと彼は三奈月さんを見て、お礼を云いました。
「コーヒーです」そう云って、タタさんのデスクに近づきました。
「ああ、ありがとうございます」彼が引き出しから、カップを取り出します。手にしているカップに注いでいきます。思えば、こうするのは2週間以上振りのことです。なんだか、つい倖せな気分に浸ってしまう彼女でした。
「あの、三奈月さん」「はい」自分のデスクへ戻ろうとしたときに、タタさんに云われます。
「なんですか?」
 タタさん、何か云いたげにするのですけど、「いえ、なんでもないです」と目をすっと反らします。三奈月さんはなにか引っかかるものを引き擦りつつ席へと戻ります。
(タタさんも「変」みたい・・)
 どうしたのでしょうか。

 昼になって、いつもの様にみんなで、社食に来ました。久しぶりに全員の顔が揃う、と思いきや。
「有川さんはどうしたのですか?」三奈月さんが訊きます。
「なんか、今日は外に出て食べてくる、って云ってましたよ」マキさんが答えます。
 それを聞いて、ちょっと考え込みます。そして、云いました。
「すこし、有川さん、変じゃないです?」
 タタさんは、そうですか?と云いますが、どことなく不自然な感じ。マキさんは思い当たる節があるらしいです。
「そうそう、きのう、美由さんに会ったのですけど、」そして、有川くんの奇妙な行動が露呈される結果となりました。
 前日のマキさんと美由さんとの話とはべつに、
 午前中にちょっとした打合せがあったのですが、そのときの、有川くんを見て誰が云うともなく訊いたのです。
「PalmIII は?」「忘れました」
 しばし、その空間が凍りついた様になった後、みなさんそれぞれ、驚きのリアクションを取ったのでした。
「どうしたんですかねぇ」
「さあ、珍しく、なんか悩んでいるんじゃないの」高原さんは辛辣です。
「タタさんは何か知っているんでしょう」
 そう云うマキさんの問いに、
「うーん、そうですか。美由さんがそんなに気にしているなら、いけないですね」そう云います。
「なんですか?」
「まあ、それはおいおい分かりますから。私から云っていいことじゃないですし。彼にはそれとなく伝えておきますよ」
 これまた、はっきりしない答えです。

 夕方になった頃に有川くんはさっさと帰ってしまいました。どちらかというと夜型の彼です。今日は早く来たので、ということでしょうか。三奈月さんが彼のデスクを見た時には、今、話題になっている PalmNavi *1 のページが開きっぱなしになっていました。いつも、マシンを落としていく彼です、やはり、何かあったのでしょうか。
 三奈月さんは、大体のいつもの時間にオフィスを出ることにします。後片付けをして、残っている人たちに挨拶をすると、部屋を出ました。エレベータホールで、エレベータを待っていると、
「おつかれさまです」タタさんです。
 それに応えて、来たエレベータに一緒に乗りました。タタさんとは、帰り道が途中まで一緒です。三奈月さんはこの幸運にちょっと感謝してしまいました。
 タタさんが居なかった間に起ったことや、彼の方で起ったことなど、会話が弾みます。しかし、話していてもどことなくタタさんは居心地が悪そうな雰囲気を終始持っているみたいでした。
 それでも三奈月さんは、それを感じないという風に話を続けます。でも、少し淋しい気分になってしまいました。
 そして、タタさんとの帰り路の分岐点に近づいた時、
「これ、三奈月さんに買ってきました」そう云って彼は、小さな包みを取り出します。三奈月さんはそれを、そっと、受け取りました。
「開けてみていいですか?」彼は頷きます。
 小さな女の子の付いたキーホルダーが、出てきました。その彼女の表情を瞳を近付けて見てみます。
「ありがとうございます」
 大切にします、と心の中で呟きました・・
 彼は、少し困った様な、でも嬉しそうな、はにかんだ笑顔を初めて三奈月さんに見せてくれました。もしかしたら、タタさん、朝からこの機会を待っていたのでしょうか。でもそれは、恐らく、
(考えすきだよね)
 と三奈月さんは自分を諌めました。
 三奈月さんと同じくらい、満されている彼の心の内を、まだ、彼女は知りません。

◇ ◇ ◆


*1: 話題の濱橋さんのページです。ランキングがいいですね。挿し絵がとってもいい味を出しています。

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