朝露
連載32(Ver1.0)
◆ ◇ ◇
彼は朝の雨が嫌いです。
それは、彼の朝を見れば一目瞭然のことなのですが、もう少し違った側面もあります。
その朝は明るかったので、彼は布団からそこそこ元気に起き出すことができました。着替えをすると、他の家族を起さないようにと、静かに廊下を歩いて外に出ました。自転車を引いて門の外でそれに乗ります。
夏とはいえ、辺りはまだうす暗く、足元を探るようにして進みます。でも、空の雲は厚くはないようです。
いつもの路、ペダルをこぎながら、水溜まりを避けながら走ります。
彼が朝の新聞配達を始めて、もうすぐ、1年が経とうとしています。動機は、なんとしても、自分のパソコンを手に入れたかったからです。でも、中学生のおこづかいをいくら溜めたところで、それには限界があります。当然ながら、校則でバイトは禁止されていますし、親が許してくれるはずもありません。
しかし、どういうわけなのか、学校でも「新聞配達は特別」らしかったのです。彼自身、それを特別扱いにするということに、疑問が無かったわけではありませんが。ほかに方法も無さそうですし、両親も、それならば応援すると云ってくれたのでした。
当初はなかなか、一人では起きられなかったのですが、それも馴れました。冬場の大変さに比べれば、今は本当に楽です。
新聞屋さんに着いて、今朝の分の新聞を荷台に括り付けます。その頃には、周りはもう明るくなっていて、ライトを点ける必要はありません。毎日の道順へとスタートします。
正直、自分でもこれ程に長続きするとは思っていなかったのです。もちろん、「パソコン」という大きな目標がありますから、がんばれるのですけど。現在では、パソコンと云っても、それ程に高いものではありません。正月のお年玉と稼いだ金額とを合わせれば、そこそこのスペックのものが買えそうな時期もあったのです。
いつものコースを辿りながら、つい呟きます。
「・・今日は会えるかな」
目を開くと、部屋の中が明るかったので、外は晴れているだろう、と思いながら、ベッドから勢いよく床に下りました。カーテンを開くと、朝の光が部屋に差し込みます。
連日の雨で、このところストップしていたのでした。マキさん、いつものスタイルに着替えると、玄関を後にしました。アパートを出たところで、少し体を動かしてから、久しぶりの道を走り始めます。
半年前くらいでしたか。
朝のいつもの通りを、走っていたときに彼女とすれ違いました。その初めての時は、印象が薄かったのですが、それから数日を経過してほとんど毎日のように、朝、顔を合わせるようになって、その人と挨拶を交すようになりました。
とびきりの美人というわけではなく、どちらかと云えばボーイッシュな雰囲気の彼女なのですが、健康的なスタイルと上気した頬、なにより「おはよう」を云うときの笑顔が・・
(たぶん、大学生なんだろうな。田舎からこちらに出てきて、初めての一人暮しとかかな。高校生に見えないこともないけど、それにしては、身体つきが) 彼から見れば、眩しすぎる様です。
そのすれ違いの一瞬が、彼に取ってとても重要なことになって、数ヶ月が過ぎようとしています。もちろん、彼女の名前を知ることはできません。
その結果が、より「グレードの高いパソコンを買う」という目標に妙な感じで連結されたのでした。
しかし、ついこの前、従兄弟のお兄さんに見せられた『ぱーむなんとか』という小さなコンピュータも気になります。それなら、いま貯金されている金額で十分手にできるとのことでした。
緩やかな坂道を登ったところに、赤いポストが見えます。数日を空けただけなのに、少し息が上ってきてしまいました。
「年かなぁ」なんてことを漏らしています。TEENS と思われてしまっている彼女の科白としては、十分に滑稽です。
それでも、乾ききっていない水溜りを飛びこえて、坂の上を目指します。大抵、その辺りで、新聞配達の男の子とすれ違うのですが。
下り坂に近づきました。なるべくなら、坂の前に彼女に会えたら良かったのですけど。止まって、郵便受けへと新聞を押しこみます。そして、道をはさんだ反対側の家へも新聞を置きに行きます。玄関ドアの郵便受けまで、階段を上ります。
下りてきたそのとき、
「おはよう!」
傍らから、声がかかりました。見ると彼女です。
「お、おはようございます」いつもながら、緊張してしまっている自分をもどかしく感じます。
「最近、大変だったでしょう?雨で」彼女は、その場で足踏みをしながら、訊いてきます。
「はい、まあ、仕事ですから・・」
がんばってね、そう云って、彼の肩をポンと叩くと、彼女は行ってしまいます。彼は自転車まで戻りますが、彼女の後ろ姿に少し見惚れてしまいます。ショートパンツから、すらりと伸びた足に釘付けになりそうになっています。はっと、自分の頭を小突くようにしてから、ペダルを再度こぎ出します。
今日は良い日になりそうです。
マキさん、家に戻るとそのままシャワールームに直行します。汗を洗い流すと、キッチンでトーストを焼きます。最近は会社でコーヒーが飲めるので、朝のドリンクは牛乳となりました。トーストにマーガリンを塗ってかじりつきました。
そうしながら、日本語化された DateBk3 *1 でスケジュールをチェックします。今日は彼女の初仕事と云うべきプロジェクトの打ち合わせがあります。自然、心地良い緊張が込み上げてきました。Pilot に転送しておいた事前のドキュメントを、TealDoc *2 で軽く読み流します。なんと云ってもタタさんがまとめ役なので、嬉しいですし、安心です。
朝食を終りにして、着替えをし、鏡に向います。
荷物をまとめます。まだ、他の人たちのように、ノートPC を持ち歩くようなことはしていません。持ちものは、電車で読む本と財布と、あと数点くらいです。
靴を履いて、玄関に掛けてあるミラーにもう一度自分をうつすと、外に出て施錠しました。
カバンを肩にかけると、いつもの足取りで勢いよく歩き始めます。
◇ ◇ ◆
註
*1: 更にバージョンアップを重ねている、Datebk3 です。現在では完全な日本語化が成されています。ローカライズは、冨永さんがされました。
*2: TealPoint 作成の、Docフォーマットリーダーです。最近は、TDoc Writer (BETA) が話題です。 TealDoc の為のリンクやブックマークが付けられるそうです。

