Wild Wind (Pilotな日常 連載26)

Wild Wind
連載26(Ver1.0)

◆ ◇ ◇

パタパタパタ。
廊下をスリッパで、駆けていく音が聞こえます。それから、ドアの開く音。
「いってきまーす」と、そちらから声がしました。
「はい、行ってらっしゃい」呟きます。
 誠司さん、トーストをくわえながら、新聞を見ていました。いつもの朝のひとときです。いつものメニューをたいらげると、高原さんが半分飲んでいったコーヒーの、そのもう半分を、カップに注ぎます。
 煙草を咥えて、ライターの火を近づけます。
 煙を吐き出しつつ、ノートPC を起こし、メールをチェックします。特に緊急の用件は無さそうでした。有川くんからのメールが久しぶりに来ていました。
『今日あたり、夕食をご一緒できませんか?』
 という内容です。
「珍しいねぇ」
 了解のメールをその場で書きます。今日は特に忙しいことも、打ち合わせも入っていないはずです。彼の云うとおり、確かに珍しいことです。
(なにか、理由があるんだろうな)
 漠然と感じます。
 もう一人、キッチンに入ってきました。朝食を始めます。
「よお、おれより遅い昼食か?」
 居候の身の又八郎さん、それに答えます。
 明日には、タタさんが戻ってくる予定ですので、又八郎さん、今日明日はお世話にならなければなりません。
 誠司さんが、いつもの Web 巡回コースを回っている間に、又八郎さんはお皿のキャットフードを食べてしまいました。そして、居間へ移動して、窓を手で「コンコン」と叩きます。
 誠司さんは手をちょっと止めて、居間に入ってきました。窓を開くと、又八郎さん、するりと外へ出ました。一度ふり向いて、そして、軽い足取りで行ってしまいます。
「行ってらっしゃい」彼もお見送りします。
「手のかからない、おひとだねぇ」そう云って、窓を閉めました。

 Dragon Bane *1 は、インストールしてありますが、あまりまだ、触ってみてはいない状態です。彼の Pilot は 4M ですから、多少大きなアプリケーションでも、まず、問題はありません。辞書は Dic-TK *2 を入れ、KDIC *3 も TRAIN *4 も入っています。
 問題はやはり、アプリがたくさん在るぶん、「Hard Reset」からの復旧が大変になります。PiloInst+ *5 を便利に使用させて貰っています。
 そろそろ、Pilotware の開発にも手を出したいところなのですが、なかなか始められないでいます。
 灰皿を片付けます。そろそろ、出掛けなければなりません。
 車庫に来ました。カバンを助手席へ放ると、キーを差し込み、回します。辺りにエンジン音が拡がります。少しアイドリングした後、アクセルを踏みました。
 いつもながら、日はすでにもう高く、サングラスを手だけで探って掛けます。煙草に火を点けようとして、ひとつ、気付いたことがありました。
「いけね。財布を忘れた・・」

 約束があったので、仕事を早めに切り上げました。それから、有川くんに指定されたお店に来たのですが。
「彼は、まだ来ていませんよ」
 その店員の口ぶりから、彼はどうも顔見知りの様です。なるほど、Jazz が流れていて、いかにも有川くんの好きそうな雰囲気ではあります。ピアノが中央に置かれています。
 誠司さんも、咥え煙草でピアノを弾く彼の姿を、何度となく見ています。
「すみません、待ちました?」彼です。
「はい、これ」高原さんからです、と封筒を渡されます。誠司さん、奥さんに心の中でお礼を云いながら、それを受け取ります。まさか、有川くんに奢って貰うわけにもいきませんので、事前にメールを入れておいたのでした。
 ふたりで、向いあって座ります。しばらく、近況などを話しました。
「彼は、まだ帰ってこないの?」
「タタさんですか?明日に戻ってくるって聞いてますけど」
「いや、タタさんのことは知ってるよ。又八郎さんはウチだからね」
 そうじゃなくて・・ と、ちょっと考え込みます。
「ああ」有川くん、判ったようです。
「安堂ですね」「そうそう」
「どうなんでしょう、全然、情報が来ないですよ。もう2年ですねぇ」
 安堂くんという人は、有川くんの同期入社なのですが、今はアメリカへ出向しています。別のグループだったのですが、誠司さんと一緒にプロジェクトに関わったという経緯があります。
「ずいぶん前にメールがありましたけど、結局、彼女と別れたらしいです」
「ふうん、遠距離は難しいか」
「せめて、陸続きだったら良かったのかもしれないですけどね」

「あのさ」
 一時間くらい経ったでしょうか、誠司さんが云います。
「そろそろ、本題に入ったらどうだ?」
 はあ、急に有川くん、なさけの無い顔になります。
「仕事のことか?」
 首を振ります。そして、隣の椅子に置いていたリュックサックから、取り出したものをテーブルの上に置きます。
「そうか・・とうとう、覚悟を決めたか。それで、さっきからおれのこれを、ちらちら見てたんだな」
 そう云って誠司さん、自分の結婚指輪を指でつつきます。
 有川くん、残っていたワインをぐいっと空けて訊きます。
「どうしたら、いいのでしょう?」
「はあ?普通に渡せばいいだろう?彼女だって、お前にそんな凝った演出は求めてないからさ」
「でも、なんか極意があるでしょう?こういうことって、センパイしか訊く人がいないんですよぅ」『センパイ』を強調して云います。
「極意ねぇ」
 少し考え込むようにしていた誠司さんは、テーブルをトンと叩いて云います。
「一曲、弾ってくれたら、教えようかな」とピアノの方を指差します。
 おやすいご用です。と有川くん、マスターのところへ行って許可を貰います。それまで店内に流れていた曲がストップしました。
 彼は、軽く周りに一礼してから、ピアノの前に座ります。旋律が流れ始めます。
 隣に座っていた女性客から溜め息が漏れるのが、聞こえました。誠司さんはテーブルの上に乗っている、その箱を眺めます。
 「いい男じゃないの。十分に」
 彼女だって分かっているさ。
 鍵盤の上をなぞっている、彼を眺めながら、「極意」の言葉を繕います。元々、そんな(もの)は無いのですが・・

◇ ◇ ◆


*1: 話題のPilot版、本格 RPG。Palm Creations 作成。
*2: パワフルなフリーの J-OS 辞書です。桂川さん作成。
*3: 川島さん作成の辞書アプリケーションです。
*4: おなじみ、今関さん作成、電車の経路を検索できます。
*5: Pilot のインストールを簡単に行えるツールです。それぞれのバックアップを保存することもできます。masさん作成。

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