強敵
連載12 (Ver1.1)
◆ ◇ ◇
その日、タタさんは少し遅めに出社してきました。というのは、前の日に、ボリュームのある会議の資料を揃えていたために夜遅くなったからです。昼過ぎから再度、客先で打ち合わせです。まだ、話が固まっていないプロジェクトですので、何としても今日の打ち合わせで話をまとめたいと気合が入っています。
デスクに座って、まず、Pilot を Cradle に置きます。Sync ボタンを押したところで、声がかかりました。
「タタさん、コーヒー入りました」
三奈月さんです。ありがとう、と云ってカップを取り出します。机にそれをのせて、彼女がサーバから注ぐのを横目にディスプレイの電源を入れます。
気のせいでしょうか、三奈月さん、ちょっと顔が上気しています。しかし、タタさんはそこには触れずに、今日の打ち合わせの件を彼女に伝えます。プロジェクトとして立ち上がるなら、三奈月さんも関ることになりそうです。
三奈月さんが行ってしまうと、入れ替わりに高原さんが話しかけてきました。なにやら、楽しげに笑みを浮かべています。
「なにか、あったのですか?」
「まあね」どうも、つい笑みがこぼれてしまうといった感じです。
「かわいいじゃないの」
と云います。思わず、タタさん自分を指さして首を傾げます。高原さん、苦笑いです。
「どうして、タタさんが(かわいい)わけ?」
気が付きました。確か、三奈月さん、「タタさん」と云いました。この愛称で三奈月さんが彼を呼ぶのは初めてのことです。
数日前に、タタさんは新入社員の人たちに対して、研修を行っています。「インターネット上でのサービス」に関しての話が中心でした。
彼自身、人の前に立って説明をするということは決して、不得意なことではないのですが、どうも反応がいまいちよくありません。研修としては、すでに大詰めの段階に入っていますから、もう少し身を入れて聞いてもらいたいところなのですが。
「あの、田中さん」
「はい、」
一通り話しは終わって、拡げた資料を片付けていたところ、声がかかりました。顔を上げると、一番前に座っていた女の子です。タタさんの印象では、一番しっかりと話を聞いていてくれた人です。
「Pilot ですよね?それ」と机上のそれを指さします。タタさん、研修の進め方を Pilot にメモ書きして、それを見ながら話していたのでした。
ちょっと驚きます。
「よく、知ってますね」
「私、持っているんです」そう云って、彼女はポケットから PalmPilot を取り出します。
「でも、そんなにちゃんと使っていないんです」と云う彼女、アドレスとスケジュールを中心に使用しているだけのようです。貰ったものだから、J-OS などは初めから入っていたそうです。
「あと、パッケージを幾つか一緒に貰いました。QuickPac *1 とか、HandStamp *2 とか・・」それは、単純に、要らないからくれたということでしょう。
「パソコンはあるのですよね」
「ええ、ノートがあって、そこで Sync しています」
「会社なら、ネットワークが早いですから、いろいろ探したり、落としたりしやすいですよ」と云うと、
「そうですよね、Cradle 持ってこようかなぁ」
タタさん、資料をそろえるようにしながら、座席表をちらりとみます。彼女の席にある名前は「岡崎マキ」さんです。
タタさんの研修講師の最終日。午前中に話を終えたタタさん、慌ただしく、そのまま食事もとらずに、会議に直行です。
「ご一緒しても、よろしいですか?」
高原さん、有川くん、三奈月さんが昼食を取っていたら、話しかけられました。新人の女の子たち数人がトレイを持って立っています。高原さんが何日か講師として研修を行ってますから、顔見知りになっています。
テーブルに座ると、高原さん、他のふたりを紹介します。有川くん、つい、顔がにやけてしまっている様子。簡単に挨拶から始まって、それぞれで、会話が始まります。
「岡崎さんって Pilot を持っているんだって?」有川くん正面に座った彼女に訊きます。
「はい」
そこで、有川くんとマキさんが二人で盛り上がってしまいました。彼は内ポケットから、PalmIII を取り出して得意げです。
高原さんたちは他の子たちと、会社の印象などを聞いています。話してみると、特にコンピュータに興味があって入社した、という人はほとんどいないようです。
「三奈月さん、DirectSync *3 って、今、会社にある?」
「ええ、持ってますけど」Pilot 同士でデータ転送するから貸して欲しいと云います。快諾して、後で持っていくと答えました。
突然に、マキさんが云いました。
「田中さんって、結婚しているんですか?」
その時、高原さんは、三奈月さんの眉がピクリと動くのを見逃しませんでした。
「タタさん?まだ、みたいだけど」有川くんが答えます。
「タタさんって?」
「『田中太郎』さん、だからタタさん」
「ふうん、雰囲気にぴったりですね」マキさん、そう云ってにっこり笑います。
「じゃあ、タタさん、付き合っている人は?」
今度は、三奈月さん、口元が痙攣した様になります。
「さあ、わからないよ。プライベートなことは」そう云うと、高原さんの方を解答を求めるように見ます。
「いまは、フリーみたいだけど」高原さん答えます。
「そうなんですか」そう云って、マキさん、さらに楽しげに微笑みます。
どうしたんですか?目の前の女の子にそう云われました。三奈月さん、はっとして、止まっていた箸を動かします。しかし、それも、少しおかしな動きです。そんな様子を、高原さんはわけ知り顔で、楽しげに眺めています。
◇ ◇ ◆
註
*1: Landware 作成の Pilot ツール集です。
*2: モデムが発売された当時は、通信の手段がこれしか有りませんでしたので、その頃にモデムを購入した人はみなさん持っているはずです。
*3: Pilot 同士を接続して直接データの転送を行います。TealPoint 制作。

